原方衆のこと、米沢のこと。

2025年6月1日

今回は、米沢のことを書きたいと思います。
米沢は、学生時代の3年間を過ごした街でした。
正直、学生時代はこの街の良さがわかりませんでしたが、今はとても魅力的に感じますね。
そのあたりの心境の変化を、つらつらと書き連ねてみたいと思います。

ちょくちょく、足を運ぶようになりました。

ここ2~3年、米沢に足を運ぶことが多くなりました。
お目当ては、上杉博物館です。
ここの催し物が、とてもレベルが高くておもしろいのですね。

関が原前後の上杉藩の動向を紹介した展示会をみましたが、展示物のレベルが凄いです。
家康を筆頭に、当時の名だたる大名の直筆書簡がズラッと展示されていて驚きました。
どれもこれも国宝レベルのモノばかりで、どうしてこんな宝物が米沢にという感じですね。
もちろん、リアル国宝の上杉本洛中洛外図屏風にいたっては、圧巻の一言です。

催し物も戦国期に限らず、江戸時代中期から幕末、そして明治以降と多岐にわたります。
いろいろな展示をみて、あらためて上杉家は名門中の名門なのだと思いました。
東北の大名といえば仙台の伊達家が雄ですが、格式は上杉の方がはるか上のように感じます。
米沢などただの雪深い田舎町だと思っていましたが、まったく侮れないですね。

半士半農の原方衆

そんな米沢には、原方衆と呼ばれる下級武士集団がいました。
彼らは米沢近郊に開拓村のような集落を築き、そこで半士半農の生活を送ったのですね。
上杉記念館には、その様子がジオラマでリアルに展示されています。

元々、上杉家は会津120万石の大大名でした。
それが、関ヶ原で西軍についたために、戦後米沢30万石に減封されます。
ところが、そこで上杉家は家臣をリストラしませんでした。
そして、城下に収容できない下級武士を、このような集落に住まわせたのですね。

この原方衆の集落は、いまでも郊外のあちらこちらに点在しています。
有名なトコロでは、市の東南にある芳泉町ですね。

この集落には、原方衆が住んでいた屋敷が現役で残っています。
史跡の指定などがないことで、その土地の息遣いといったモノがよりリアルに感じられますね。
かつて、原方衆はどのような想いでこの地に赴いたのでしょう。
ウコギの垣根を眺めながら、そんなことに思いを馳せるのでした。

食わず嫌いはやめることにします。

さて、私と米沢の関わり合いですが、それほどハッピーなモノではありません。
正直、私にとっての米沢は、長らく島流しされた屈辱の地なのでした。

共通一次の直前まで、私は父が出た仙台の某旧帝大に進学するつもりでいました。
しかし、”お呼びではない”というテストの結果で、こちらの学校に進学となったのです。
ぶっちゃけ、それまではキャンパスが米沢にあることすら知りませんでした。

はじめて受験で訪れた米沢は、とにかく雪の多さにがっかりでしたね。
駅前に降り立つと、山奥の集落でしかみたことがない消雪パイプから水が噴き出ています。
そもそも、米沢までの奥羽本線がスイッチバックで、車窓は完全にホワイトアウト。
自分はこんな僻地で学生生活を送るハメになったのかと、とても凹んだのでした。

とまぁ、そんな調子で進学したワケですから、米沢などおもしろいワケがありません。
こんなトコロ、負け犬上杉が治めていた敗北の地だと、ながらく食わず嫌いしていたのでした。
そして、卒業してからは、ほとんど訪れることもなかったのです。

しかし、米沢のポテンシャルの高さを知るにつけ、かつての自分を猛省するばかりですね。
私など及びもつかないほどに過酷な境遇ながら、誇り高く生き抜いた原方衆。
そんな彼らと米沢に八つ当たりするだけだった私との雲泥の差に、もはや笑うしかありません。

いま振り返れば、米沢は本当によいトコロでした。
住んでいる方々も、親切で真面目な方が多かったような気がします。
そして、これだけ格式高い街なのですから、もっと肯定的に受け入れるべきだったと思いますね。
まぁ、若いころの小僧過ぎる私には、土台無理な話なのかもしれませんが。

いずれにしても、食わず嫌いは良くないです。
そして、この歳で米沢の良さに気づけただけでも、儲けモノなのかもしれないですね。
ということで、これからはちょくちょくと、米沢行脚を楽しもうと思っています。