震災遺構に思うこと。
春休みのドライブで、宮城県の登米・石巻方面にいってきました。
そして、石巻市立大川小学校の震災遺構を見学しました。
甚大な被害が出た現場ですが、実際に震災を経験した者として思うところもいろいろあります。
今回は、そのあたりのことを書いてみたいと思います。
油麩丼は、思ったよりもおいしかったです。
すこし前の話になりますが、3月の末に家族で、登米・石巻方面にドライブに行ってきました。
きっかけは、登米名物「油麩丼」を食べてみていという配偶者の一言です。
TVで見かけて、虜になってしまったようでした。
この油麩丼は、カツの代わりに登米名物「油麩」がのったカツ丼です。
ぶっちゃけ、この話だけでは食指が動きませんでした。
ただ、おかえりモネを観てから、ひさしぶりに登米に行きたいとも思っていて、春休みのレジャーがてら、家族でドライブしてきたのでした。
ネットで調べると、油麩丼は林林館という登米の道の駅で食べられるようです。
自宅から高速と下道で2時間ほどかけて、道の駅林林館にたどり着きました。
さっそく油麩丼を注文すると、これが想定外にボリューミーでびっくりです。
ダイエットが軌道に乗ってきたタイミングだったので、これにはちょっと後悔しました。
一人前を配偶者と半分分けにして、ちょうどよいぐらいの分量でしたね。
ただ、油麩丼自体は、予想に反してとてもおいしかったです。
口当たりはボリューミーですが、やはりそこは麩ですので、あとからガツンとお腹にきません。
ご飯の量はかなり多めですが、なかなかのダイエット食だとは思います。
また機会があったら、ぜひ食べに行きたいですね。
ということで、お昼前に当初の目的を達成してしまいました。
道の駅で地酒などを物色したあと、ひさしぶりに登米の小学校にいってきました。
20年ぶりぐらいの訪問ですが、相変わらず立派な小学校です。
江戸から明治の頃にかけて、この辺りは米の集積地でした。
舟運盛んな頃の栄華がしのばれる校舎ですね。
職員室のガラガラという扉の音に、昭和を感じることができました。
震災遺構まで、足を延ばしてみました。
小学校を見学したあと、息子の希望で震災遺構まで足を延ばしてみました。
石巻市立大川小学校、先の震災で生徒108名中74名、教職員11名中10名が亡くなった悲劇の学校です。
ここにくるのは2回目、4〜5年ほど前に配偶者と二人で訪れています。
その時は、本当に廃墟の状態でした。
いまは遺構として整備され、誰でも見学できるようになっています。
こちらは、1〜2年生の教室と職員室があった建物です。
多角形の平屋で採光もよく、いかにも低学年向けの校舎ですね。
そして、その裏側が3年生以上の校舎になります。
あの日の津波で、この二階建ての校舎は完全に水没しました。
めくれ上がった二階の床から、津波の破壊力がうかがい知れます。
裏山からの全景、ここに逃れた者のみが一命をとりとめることができました。
津波はこの場所の、すぐ足元まできたそうです。
現場を歩くとあらためて、津波被害の大きさが実感できますね。
最終的には運なのかもしれません。
遺構の傍には、小さな資料館ができていました。
展示によれば小学校に限らず、この大川地区では多くの被害が出ているようです。
数々の展示資料の中でも興味深かったのは、地区別の死亡率でした。
同じ大川地区でも、海岸の長面地区が30%なのに対して、小学校より一ブロック内陸の針岡地区では50%の人が亡くなっているそうです。裏を返せば、これは誰もここまで津波が来るとは思っていなかったということの証左だと思いますね。
実際、この大川小学校は、海岸から3.7kmのところに立地しています。
であれば、ここに津波が来るとは誰も思わないのが当たり前でしょう。
現に私もあの日、海岸から2kmの地点にいましたが、絶対に津波などはこないと思っていました。
年少の頃より、津波はリアス海岸の三陸地方に襲来するモノだと刷り込まれていましたからね。
ですので、もしあの日、私がこの場にいたとしても、裏山に逃げるというオプションは絶対になかったと確信しています。なぜなら、あの日までの津波の知見は明治の三陸大津波ですから、これは仕方がないことですよね。私もあの日、帰路を一歩間違えればガレキと化していたハズですから、これはもう運だとしか思えないのです。
ただ、遺族感情を考えれば、あの判決も致し方ないのかもしれません。
ということで、いろいろと感じたことを家族で語り合いながらの帰路となりました。
結局、人間の知見というモノは、経験によるところがほとんどということだと思います。
この震災の悲劇が1000年、2000年と語り続けられるようにと、そう願うばかりですね。