庭仕事に想う
そんなこんなで、ブログのトップページができたのがお昼前。部活に行っていたセガレが帰ってきたタイミングでふと窓に目を移すと、朝からの雨はいつの間にか上がっていた。インスタントラーメンで昼食を取り、午後からは配偶者とペットショップに出向き、昨年秋からWebiker家にやってきた柴犬かりんのトリミング。柴犬を飼うのは初めてなのだが、季節の変わり目の毛の抜け方にはビックリさせられた。最初は病気になったのかと思う程の抜け方で、それでもマメにブラッシングしたりしてみていたのだが、もはやライオンのたてがみ状態に陥り、結局はプロに頼むことにしたのだ。小一時間のトリミングで、とても綺麗になったかりんに一同大満足。そして帰宅後は、いつもの如く配偶者と庭仕事を楽しんだ次第なのである。雨上がりの庭は涼風が吹き、濡れた土は埃もたたず雑草も抜きやすく、何とも気持ちの良い作業であった。
最近の私の楽しみの一つは、この庭仕事である。特に、休日の午後など配偶者と共に、仕事や子供、その他諸々の話をしながらの庭仕事は至福のひと時だ。50歳を前にとんだ老夫婦の体だが、かつては実家で庭仕事に夢中になるお袋の行動動機がまったく分からなかった事を思うと、我ながら歳を取ったモノだと思ってみたりもする。というよりも、自分で造り上げた庭故に、思い入れも大きいのだろう。
Webiker家の庭は、約24平方メートルのこじんまりとした庭である。今の自宅を新築した際にもれなく付いてきた庭で、このぐらいの面積なら楽勝だろうと、ちょっと憧れの芝を張ったりしている。ところが、実際に手入れをしてみるとこれがなかなかのボリュームで、ちょっと手入れを怠ると直ぐに荒れ放題になってしまうのだ。特に、今年は7月から8月にかけて多忙を極め、殆ど手入れができなかった。水を撒く事すらできなかった庭は、芝が雑草で埋め尽くされ、またその一部は焼き枯れを起こしている有様で、また猫の額ほどの畑もシソと雑草が生い茂り、その荒み方は正に、今夏の私と配偶者の心の荒みを映したかの如きであった。日よけと食用を兼ねたゴーヤも、今年は殆ど収穫がないまま枯れてしまったままだったのである。そして、多忙を極めた夏が過ぎ、9月に入った辺りから少しづつ、庭掃除をする余裕が出てきたという事なのだ。
それにしても、庭仕事というのは精神衛生的に非常によい作業である。これは、世間一般に広く知られている事でもあるが、それでは何故に庭仕事は精神的によいのだろう。これについては、緑や土に触れるが故の効能と理解するのが一般的のようだが、私はもっとシンプルに、頑張りの成果が目に見えて分かるところからの達成感にあると考える。つまり、庭仕事というのは達成感が約束された、プロミストワークなのだ。
それに引き換え現代の仕事は、なかなか達成感を得られ辛い。やってもやっても終わらない作業、次々と襲う無理難題。上手くいかなければ叱責の荒らし、程々にこなせばダメ出しの集中砲火、そして期待以上に応えれば、ますますもってハードルを上げられる。そしてその成果は、実感として分かり辛い。これでは達成感など得られる余裕もなく、心の病を発症する人が絶えないのも分かる気がするというモノだ。兎に角、頑張っても頑張っても達成感を得られない環境ぐらい辛いモノはない。一体、何のためにこんな事をやっているのかなんて考えだしたら、もうお終いである。現に、私も7月から8月にかけては、そんな日々が続いていたのだ。
そんな疲れ切った心身を、庭仕事は癒してくれる。コツコツと雑草を取り、芝生を刈って整えて、最後に竹ぼうきで落ち葉を掃き出す。そして、小一時間の作業で綺麗になった庭を眺めるうちに達成感が込み上げ、その手入れされた庭同様に、やさぐれ気分の私の心も清められていくのだ。こればかりは、ネットやオートバイでは得られない効能である。24平方メートルの小さな庭だがあってよかったと、心からそう思う今日この頃なのである。