石垣紀行-02
年譜には石垣を含めた八重山地方の歴史がまとめられている。
年譜は、714年、信覚(=石垣?)の島人が大和朝廷に入朝との記事から始まる。あの時代に1000km以上離れた大和朝廷までとは、現代なら火星に行ってくるぐらいの話であろう。ただ、その後700年間はこれといった記事はない。色々な記事がでてくるのは1609年、薩摩が琉球征伐をしてからである。
なるほど、これでこの島の立ち位置が分かった気がした。大方、琉球王国が薩摩の支配下に入ってのち、この地の管理、要は搾取が厳しくなったのだろう。それ故に数々の資料も残っており、そこから年譜へも色々な記載ができるといった図式と思われる。それにしても、人頭税が課せられていたというから随分と苛酷な治世だったようだ。今でいうと大企業から搾取されまくる孫請の零細企業といったところか。また、マラリアで人の住めない西表島に何度も入植させられ、その都度全滅という悲劇も繰り返されていたらしい。この西表移住は先般の大戦時にも行われていたとの由。【戦争マラリア】の意味が分からず調べてみれば、これがまたトンデモな話でビックリするばかり。それにしても、このような話をこの歳になって現地に来て初めて知るというのは一体何なのだろう。琉球征伐と同様、この八重山侵略・搾取話も歴史の教科書には載せられないこの国の闇なのだろうね。(大体に、琉球征伐だって本当は征伐じゃなくて侵略だしね。)
こんな一見平和でゆるい島にも(いや、それ故なのかもしれないが)暗黒な歴史がある事を知り、ため息交じりに博物館を後にする。まだマッサージまで時間があったので、宮良殿内と桃林寺を見学する。
桃林寺などは建立時期から琉球王国(=薩摩藩)の影響を受けての建造物なのであろう。枯れた感じではあるが、それでもゆるい石垣の街の中では異様な雰囲気。皇居の桜田門のような権力の威圧を感じるのであった。
その後、マッサージを済ませ、マッサージ屋さんから教えてもらった地元の食堂で昼食。看板メニューのゴーヤチャンプルは家庭的な味でボリューム満点。ホテルの料理もいいけれど、何ともホッとさせられるチャンプルだ。
お腹を満たしたら、引き続き街プラ。八重山高校の辺りは感じのいい住宅街である。
折角石垣まで来たのだから、離島にも足を延ばしてみよう。牛車で街巡りができる竹富島までは高速艇で10分ちょっとである。
竹富島は、昔の街並みがそっくり保存されている。そこを牛車でゆったりと周る。完全に観光地化されているんだけど、それでものんびりとした時間を楽しめる素晴らしい場所だ。
石垣島、何もない南の島と思っていたが、色々と歴史がある事を今回の旅行で学んだ。でも、基本的には何もないところである。東北の山奥の集落の、その周りの山が海に変わっただけのようなところ。このスローな雰囲気に憧れて移住する人も多いと聞く。息子のお土産にと立ち寄ったTシャツ屋さんも、そんな移住者だった。出生率も高く、地方では珍しく人口が増えている。1975年比較で30%も増えているのだから大したモノだ。Tシャツ屋さんの話だとアマゾンの荷物も問題なく届くとの事だし、学習塾がないぐらいにスローで住みやすいところなんだろうと、一日街を歩いているだけでそう感じさせるような所であった。
でも、今の私にはちょっとスローすぎるかな?正直、帰路の東京は新橋辺りの雑踏に、ちょっとホッとしてしまった。南の島で、のんびり海を眺めながら暮らすのが昔からの夢だけで、私にはまだ時期尚早のようである。