父の思い出
やる気のない息子です。
現在、高校一年生の我が息子、まるでやる気がありません。
高校入試では少しやる気を見せましたが、進学してからはまるでダメ。
日々、ネットとゲーム三昧で、成績も下降の一途です。
こうなることの最大の原因は、将来の目標がないことでしょう。
やりたいこと、なりたいことといった強烈なビジョンが彼にはありません。
さすがに、これでは頑張りようがないでしょうね。
彼の希望する将来像は、ホワイト企業に就職して定時で帰ってゲーム三昧だそうです。
仕方がないと言ってはお終いですが、仕方がないと思います。
これについては本人の資質の部分もありますが、父親である私の影響も大きいようです。
なんせ、父の私はサラリーマンはブラックと辞めて、今は気ままなフリーランスですからね。
こんな父をすぐそばで見ていては、いい大学に進学する意味など見いだせないでしょう。
そして、そんな私も父親の影響を大いに受けていることに最近気づかされました。
今日は、そんな父の思い出話を切り口に、つらつらとフリーランス考を書いてみたいと思います。
私の父もフリーランスでした。
私の父は1930年生まれ、俗にいう昭和一桁です。
戦前と戦後のはざまの戦中派。終戦は15歳、旧制中学の2年生です。
人格形成期に世の価値観が180度変わった世代で、確かに戦前と戦後の価値観を同居させている、ハイブリットな一面がありました。
生真面目でコツコツと努力ができた父は、地元の中学から東北大学に進学します。
そこでも勉強についていくのが大変と、これまた入試以上に勉強をしたそうです。
そのおかげで教授先生方からのおぼえもめでたく、某大手企業への就職も決まっていたそうですが、マスター2年時に大病し全てを棒に振りました。
幸いにも、実家が質業を営む資産家だったので、そのまま30歳ちかくまで自宅療養。
やっと体調が戻ったのが30代後半、実家の質業をついで結婚し、私と妹を育ててくれました。
今考えると、そんな父の生き方もまたフリーランスですね。
父は元々の質業をバージョンアップして、ディスカウントショップを始めました。
商品も質流れ品だけではなく、遠く仙台や東京から売れ筋品を仕入れていました。
また、当時は自転車が売れるということで、半完成品を大阪の業者から仕入れて、自分で組み立て方を覚えて売っていました。
あとは、自動車保険の代理店もしていましたね。
モータリゼーションの波に乗って、こちらも良い商売になったようです。
仕事へのスタンスは父の影響が大
父の商売は軌道に乗り、私が中学に入った頃からは余裕の生活でした。
父は朝の7時過ぎには店を開け、開店準備が整うと一段落。
居間でTVを観ながら、じっくりと新聞読みをしていたものです。
そして、私が学校から帰宅する15時過ぎからはお茶タイム。
そのままウダウダと夕方まで、息子の私と世間話です。
ある意味、今の私よりもお気軽な立場でしたね。
父は、若い頃の大病と挫折から、どこか人生に対して達観しているところがありました。
いくら頑張ったところで全てが報われるワケではない。
それよりも、人生はもっと楽しむべきだ。
面と向かって言われたわけではありませんが、そんなオーラは常に出ていました。
多分、これが私の仕事に対する基本スタンスの原資になっているのでしょう。
そして、そんな父の生き方を振り返るに、フリーランスの立場でお気軽に生きるというスタイルは、別に今に始まった話でもないということですね。
思ったようにいかなくても幸せな人生。
父は、ちょうど還暦で亡くなりました。
短命ではありましたが、若い時に5年生存率ゼロと言われたことを考えれば、長生きした方だと思います。
家族も持てて、子供にも恵まれました。
一流大学卒で、同窓の多くが大企業の幹部や大学教授だった父。
大病した彼はそのような立場にはなれませんでしたが、幸せな人生だったと思います。
誰にも気を使うことがない、お気軽なフリーランス人生でしたからね。
大病の割に長生きできたのも、このお気軽さゆえのことだと思います。
そんな父の背中を見てきた私も、今ではお気軽なフリーランス人生です。
そして、やる気のない我が息子にも、このスタンスは引き継がれていくのでしょう。
勿論、面と向かって頑張らなくてもよいとは言いませんが、人生ほどほどに頑張れる範囲で頑張ればいいと、暖かい目で見守ってあげたいと思ってます。