私の東日本大震災
あの震災から、今年で10年ですね。
あのとき、私は津波の浸水エリアで、ガッツリ被災していました。
あらためて、あの状況を、ここに記しておきたいと思います。
名取市の美田園で被災しました。
2011年3月11日 14時46分、私は宮城県名取市の勤務先にいました。
事務所は、仙台空港線、美田園駅の目の前です。
津波の被害が甚大だった仙台空港と閖上の中間点、海岸からは直線距離で約3kmでした。
そのとき、私はExcelで資料を作っていました。
最初の揺れはおだやかで、はじめは隣地のくい打ちかと思いました。
当時、隣地では県の研修センターの工事が行われていたのです。
そのうち、揺れはどんどん大きくなって、大きい地震ということに気づきます。
取り急ぎ、作りかけのExcelファイルを保存して、ディスクの下に避難しました。
このときは、まだそんなに大きい地震という実感はありませんでした。
実は、数日前にも、かなり大きな地震があったのです。
私はてっきり、その余震だと思い込んでいました。
ただ、揺れている時間は長かったです。
体感的には3分近く、恐怖は感じませんでしたが、とにかく長いと思いました。
ようやく揺れが収まって、ディスクの下から這い出たときの光景です。
書庫の扉が開き、収納物がすべて飛び出していました。
PCのディスプレイも、横倒しです。
やはり、ここまで強烈な地震は、後にも先にもこれだけですね。
揺れの大きさそのモノよりも、揺れている時間が長かったことが大きかったと思います。
ただ、書庫などについては、耐震対策がバッチリ取られていました。
なので、倒れた棚で下敷きになったりする人などがいなかったのは幸いでした。
津波がくるとは、これっぽっちも思いませんでした。
さて、人的被害はなかったモノの、事務所の中はめちゃくちゃです。
取りあえず、事務所の前の駐車場に、皆で避難することにしました。
このとき、一帯は停電で、テレビなどはまったく使えません。
唯一の情報源は、何人かの社員がもっていたワンセグ付きの携帯でした。
ワンセグの速報をみて、まず震源地が特定されていないことに驚きました。
通常の地震なら数分で特定されるのに、ちょっとキツネにつままれた感じです。
そして、太平洋沿岸すべてに、津波警報が発令されていました。
もちろん、これだけの地震なら、津波がくることは十分に考えられます。
ただ、津波がくるのは昔から、三陸沿岸というのが常識でした。
リアス式でもない仙台沿岸に大津波がくるなど、いまだかつて聞いたこともありません。
ということで、この津波警報は、まったく信じられませんでした。
ましてや、今いる場所は海岸から3km以上も離れた場所です。
よもや津波がきたとしても、ここが浸水することは絶対にないと思いました。
その後、総務部長の判断で、会社は解散ということになります。
16時過ぎに、私も事務所を後にしました。
このとき、私は自宅のある山形市まで帰ることになるのですが、実家の母親が気がかりです。
携帯で電話をかけるも、回線がパンクしていて通じません。
ということで、まずは実家のある白石市に寄ってみることにしました。
名取市から白石市までの最速ルートは、高速道路です。
まずは、最寄りの名取ICに向かおうと考えました。
でも、高速は通行止めになっている可能性が非常に高いと思いました。
ということで、高速を使わず実家に向かうことにしました。
この判断は、今思い返しても運命の分かれ道だったと思います。
あそこで名取ICに向かっていたら、私はいま、この世に存在していないかもしれません。
この時点においても、私はまだ津波がくるとは思っていませんでした。
いったん、美田園に戻りました。
ということで、事務所の前の道を西進し、まずはR4を目指しました。
ところが、R4との交差点は、信号機が止まっているため大渋滞でした。
これでは、実家になど永久にたどり着けそうにない感じです。
ということで、ルートを変えようと、いったん美田園まで戻りました。
美田園から仙台空港北側の農道を使って舘腰に抜け、そこから村田経由のルートです。
これなら、大渋滞のR4を回避して実家に向かうことができます。
美田園まで戻ると、川の様子が一変していました。
なんと、自動車が流れています。
撮影時刻は、16時30分です。
ここにきて、津波がすぐそこまで来ていることを知りました。
ただ、まだ美田園あたりが浸水するとは思っていませんでした。
その後、舘腰にたどり着いて、来た道をふり返ったときの写真、撮影時刻は16時34分です。
彼方に、ゴジラにでも襲われたかのような黒煙があがっていました。
今思うに、あれは津波に襲われた閖上地区あたりの黒煙なのでしょう。
そして、私が4分で抜けたエリアも、まもなく津波で水没したのでした。
よく、津波に巻き込まれなかったと思います。
あの日、私が走ったルートを、国土地理院の浸水マップに描いてみました。
もろ、浸水エリアを走っていますね。
あらためて、九死に一生だったと思います。
その後、裏道を駆使して、なんとか実家まで辿り着きました。
実家も、土蔵の壁が崩れるなどの被害がありましたが、母親は無事でした。
山形の自宅に帰ることができたのは、0時を過ぎた頃でした。
山形は停電しているぐらいで、宮城ほどの被害はありません。
ただ、寝室のタンスが10cmほど移動していたのには驚きましたね。
一応、つっぱり棒で固定していたタンスです。
いかに、地震のエネルギーが大きかったかということですね。
大切なのは燃料と情報と平常心、そして運です。
直接の被災地ではない山形でも、翌日はスタンドに長蛇の列でした。
現実問題、燃料の確保が一番大変でしたね。
ただ、私は震災当日の朝に、クルマを満タンにしていました。
これについては、いまでも悪運が強かったと思っています。
翌週の月曜日、職場に向かいました。
これは、震災直後に避難していた駐車場の様子です。
私が脱出したときとは一変していて、呆然とするばかりでした。
名取IC近辺の惨状です。
あのとき、高速を使わないと判断したのは幸運でした。
あの日以来、クルマの燃料は半分以下にはしないようにしています。
また、停電時の情報源も確保しています。
そしてなによりも平常心、サバイバルするには、やはり冷静な判断が大切ですね。
でも、最終的なところは運なのかもしれないです。
津波など絶対に来ないと思っていた私が生き延びられたのは、運が良かったからなのですね。
あの日、私と同じスタンスで命を落とされた方は、たくさんいらっしゃるハズです。
あらためて、ご冥福をお祈りするばかりです。
震災から一週間、被災地でみかけた満月です。
多くの人の運命を変えた大震災、でも、日や月はいつものように昇り沈むのですね。
神々しい満月を仰ぎながら、あらためて大自然の大きさをひしと感じました。
この大自然から見れば、人の営みなどはちっぽけなモノです。
でも、ひとりひとりの営みは、何事にも代えられない大切なモノです。
震災から10年、あの時の強運を大切に、これからも生きていきたいと思います。