子宮移植とどう向き合うべきか。

不妊治療のオプションのひとつとして、子宮移植が現実になってきました。
これについては、ヒステリックなまでの拒否反応を示す方も多いようですね。
今回は、そのあたりについて、すこし考察してみたいと思います。

子宮移植は人権侵害なのか?

慶応大学が、子宮移植の臨床研究を申請するとのことです。
国内初ということですが、世の医療技術もここまで進んだのかという感じですね。
海外では出産事例もあるようで、無頓着だった私としてはただただ驚くばかりでした。

ただ、このニュースについては、拒否反応を示す人も少なからずいるようですね。
私の配偶者も然り、ツイッターなどにはそのあたりの憤まんが溢れかえっています。

結局のところ、お世継ぎプレッシャーに悩む女性は多いということなのですね。
このセンシティブな悩みを持つ者にとって、子宮移植というオプションは爆弾です。
要は、「そこまでしなくてはいけないのか?」と思わせてしまうということなのですね。

そして、そう思ってしまう原因は、伝統的な社会通念なのか、あるいは個々人の価値観なのか。
たぶん、それらが複合的に絡み合ってのことなのでしょうが、無視はできない問題でしょう。
なぜなら、世の中は好きか嫌いかで回っているモノですからね。
関係各位には、これからも丁寧な説明をお願いしたいと思います。

反対意見に合理性は感じられません。

ただ、ツイッターなどを眺める限り、合理的な反対意見はないと感じました。
「子宮移植がWin-Winと思う男性は人権感覚に欠陥がある」とまで述べる人もいますが、であれば、私は人権感覚欠陥者になってしまいます。

「臓器売買が問題」という意見も散見されます。
でも、これは「オートバイは危険だから禁止にするべし」という主張と同じですね。
悪いのは臓器売買をする人たちなのであって、子宮移植の技術自体には何の罪もないはずです。

また、「男性ならば睾丸移植を受け入れられるのか?」といった発言もあります。
これについては、男性には包茎手術というオプションがあることを考えて欲しいですね。
リスクや難易度の差こそあれ、包茎治療の意義や方向性は子宮移植と同じハズです。
子作りに関して女性だけが割を食うというのは、ちょっと違うような気がしますね。

いずれにしても、本件については「誰にでも子供を産み育てる機会(権利)がある。」という慶応大学が出したコメントに集約されると思います。
つまりは、何人たりともチャレンジしたい人の邪魔をすることはできないということですね。
なによりも自由を大切にする私としては、ここは絶対に譲れないポイントですし、これが人権感覚の欠落ということには決してならないと思います。

個人的には、子宮移植はやりません。

ちなみに、個人的なことを聞かれれば、性が男女どちらだとしても子宮移植はやりません。
移植云々以前に、私は人体にメスは入れてはいけないと思っていますので。
実際、私も高校生のときに副鼻腔炎の手術をしましたが、元の体に戻るまで3年かかりました。
副鼻腔炎の手術でもそうなのですから、ましてや子宮移植など想像しただけでゾッとします。

そもそも、実子が欲しいというのはエゴです。
エゴとリスクとの兼ね合いを考えれば、家人にこんなことは絶対にさせたくないですね。

ただ、家人がどうしてもと望むのなら、また話は変わってきます。
「これにチャレンジしないことには死んでも死にきれない」ということであれば、結果をすべて受け入れる覚悟で全力でサポートするだけですね。

以上が、子宮移植に関する現時点での私の考え方です。
というか、世の中のほとんどの人がこのような考えなのではないのでしょうか?
そう考えると、実際の子宮移植はレアケース、難しく考えるだけ杞憂なのかもしれません。

ただし、何事も理屈通りにいかないのが世の常ですね。
子宮移植の実施例が中東の国に集中しているのは、ちょっと気になるところです。
このあたりは、引き続き注意深くチェックしていきたいと思っています。