サラリーマン時代のお話-その6
今の仕事をはじめる前は、30年近くサラリーマンをしていました。
いまとなっては懐かしい会社員時代です。
そのときの思い出話、第六弾は事業譲渡から転職にいたるお話です。
サラリーマン時代のお話-その5はこちら。
譲渡先は、古臭い日本企業の典型でした。
2008年1月、事業部ごと譲渡された私は、転籍先で新設された会社で働くことになります。
そこで、私は古臭い日本企業のリアルを体験することになるのでした。
私がいた事業部を譲受したのは、POSレジで有名な東芝の関連会社です。
その会社でも同じ事業を展開しており、業界内では2位の地位でした。
譲受会社から社長として赴任してきたS氏は、その事業部の立役者でした。
なんでも、彼の手柄で製品がトヨタのかんばんシステムに採用されたとの由。
それが、事業躍進のきっかけだったようですね。
そして、さらなる事業拡大の一環として、私のいた事業部を譲受したとのことでした。
さて、そのS社長ですが、最初のころは殊勝にも戦略論らしきことを語っていましたが。
結局のところは「何が何でも売ってこい」と騒ぐだけの、ぶっちゃけ無能な営業部長でした。
そして、彼が連れてきた取り巻きも、全員50歩100歩という感じでしたね。
「ウチの会社は春は交通事故が増えるんだよ。ノイローゼになる新人が増えるから。」
なんてセリフを、自慢げに語るような連中です。
譲渡先として仙台空港ちかくに準備されたオフィスは、とても立派でしたけど。
しかし、その実態を知るにつけ、これはもう付き合いきれないなという感じでした。
元々は、全国津々浦々のスーパーマーケットにレジスターを売っている会社です。
業界自体が、そんなに紳士的ではなかったのかもしれません。
また、ライバル企業とのバトルも、そうとう熾烈なようでした。
それゆえに、あの会社の営業の現場は、パワハラまがいに荒っぽかったのでしょう。
そして、この文化の違いは、その後の会社運営の大きな影になりましたね。
S社長と私たちとの間に埋めがたい溝ができるのも、時間の問題でした。
ひとり、またひとりと、社員の退職も相次ぎました。
月に一度のパーティが、いろいろな意味で印象的でした。
さて、その譲渡先の東芝グループですが、これがいかにも日本の大企業という感じでしたね。
それを痛切に感じたのは、月に一度開かれる関連会社のパーティでした。
パーティは、いつも仙台の大きいホテルで開催されました。
ホテルの大広間を借り切って行われる交流会という名のパーティは、東北支社が幹事役です。
そして、地元の関連企業が一堂に会し、グラス片手に交流を深めるという趣旨でした。
関連企業として、パーティへの出席は半分義務のような感じでした。
そこでなにか新しい仕事を見つけてくるのが、当時の私のミッションでした。
パーティ自体は、なんのことはないただの飲み会です。
グラスと美味しいおつまみを片手に、気の向くままに名刺交換して雑談に興じる。
なんとも、お気軽なミッションでした。
そしてこのパーティが、とにかくものすごく「井の中の蛙」的なのでした。
たしかに、グループ内でビジネスが成り立つほどの規模の大きさは凄いと思いましたが。
しかし、この企業グループ、こんなことをしていて大丈夫なのかという感じでした。
パーティには、本社のお偉いさんが必ず一人は呼ばれていて、スピーチなどをしていました。
いまでも忘れられなのは、ある取締役のスピーチです。
その取締役は、当時の東芝社長であるS氏が厳しすぎると、壇上でさんざん愚痴っていました。
竹芝にある本社の高層階での取締役会。
目標未達の取締役は、「いますぐ、ここから飛び降りて死ね」と社長から恫喝されるとか。
そんな噂が、まことしやかにささやかれるパーティでした。
当時、東芝は前社長のN氏のイメージもあり、なかなか格好のいい感じの企業でした。
原発事業への集中と選択が成功しているように思っていたので、ちょっと意外でしたね。
残念なことに、当時私が感じたことは杞憂ではなかったようです。
いまの東芝の惨状をみるにつけ、ああ、なるほどなぁと思うばかりですね。
震災で会社は解散、そして想定外の転職活動です。
肝心の会社のほうは、相変わらず赤字体質から脱却できない状態でした。
しかも、以前と違って、これといった事業戦略もありません。
策なしの社長が、「なんとかしろ、もっと売ってこい。」と騒ぐだけの会社です。
私としては、お給料がもらえればそれでいいかなぐらいの熱量で勤めていました。
そんな折、やってきたのが東日本大震災ですね。
仙台空港近くにあった社屋も、津波の被害を受けました。
あの状況で、人的被害がなかったのが幸いという感じでした。
そして、この機会を待っていたかのように、会社は解散になります。
一応、勤め先はキープするとのことで、私には静岡への異動が提案されました。
このまま定年まで、静岡の出荷倉庫で働くことになるとのことでした。
東北に生活基盤がある人間に、これはなかなか厳しい提案でしたね。
でも、私はまだよかったほうです。
女性社員にいたっては、九州や北海道といったあり得ない勤務地を提案されていましたから。
要は、「これを機会にやめてくれ」ということですね。
ということで、長らく居心地のよかった事業部は、最悪の幕切れとなりました。
やはり、世の中というのはプラスマイナスゼロだと思います。
前述のS社長は、責任をすべて他の取締役に押し付け、自身は本社に栄転していきました。
折に触れ、本社の常務に米つきバッタのように取り入っていた甲斐があったようでした。
そして、「こうなったのは社員のがんばりが足りなかったから」などと語っていました。
譲渡当初は、「みなさんと一緒に、ここに骨を埋めます。」などと言っていた人です。
それが、たった三年でこの変わり身ですから、とんだ偽善者ですね。
というか、ここまでしないと生き残れないこの会社の実態に、絶望しかありませんでした。
静岡の話を配偶者にメールしたら、即行で「辞めたら」という返信がきました。
地元で公務員をしている彼女のお給料があれば、すぐに路頭に迷うこともなさそうです。
結婚してから10年にもなる隣県への遠距離通勤も、そろそろ潮時という感じでした。
ということで、私は45歳にして想定外の転職活動をすることになります。
次回に続く。