サラリーマン時代のお話-その3

今の仕事をはじめる前は、30年近くサラリーマンをしていました。
いまとなっては懐かしい会社員時代です。
そのときの思い出話、第三弾は私の一大転機のお話です。

サラリーマン時代のお話-その2はこちら

入社7年目で一大転機が訪れました。

私がメカ設計者として充実のサラリーマン人生を送っていた1990年代。
ものづくりの業界も、また大きく変わろうとしていました。

具体的には、生産拠点の海外移転です。
資材部に配属された同期などは、しょっちゅう韓国や中国に出張していました。
そして、国内の生産拠点は、その存在が危ぶまれていた時代でした。

私のいた会社も、親会社から独立独歩を求められていたと伝え聞いています。
そして、東証二部に上場するという計画が立てられたのでした。

そこで、白羽の矢が立ったのが私の所属していた事業部です。
なんでも、二部上場するにはオリジナル事業の売上が一定数必要とのこと。
ということで、強力な営業部を作ることになったのでした。

それまでは、OEMを中心に細々と営業していた事業部でした。
営業も、課長を入れて3~4人という規模です。
これを一気に拡充して、売り上げを大きくしようとしたのですね。

まずは、社内公募がはじまりました。
でも、思ったように人は集まらなかったようです。
まぁ、すこし考えれば当たり前の話ですよね。
私をはじめ多くの人が、営業の仕事などしたくないので工場勤務しているのですからね。

結局、営業に移ることになりました。

そんなこんなで、壮大な営業部をつくる計画は思ったように進まなかったようです。
社内公募で、生産現場から若い社員が何人か入ってはきましたが。
しかし、これで売り上げをつくるといっても、ちょっと無理がありますね。

そこで、今度は事業部内でなんとかせいという話になったようです。
まずは、開発設計の社員が営業に張り付いて技術フォローをすることになりました。
その後、目をかけてもらっていたN次長が営業に異動になります。
そして、いっしょに営業に来てくれないかと声をかけられてしまったのですね。

正直、営業はまっぴらゴメンでした。
技術の道に進んだのも、営業の仕事など死んでもやりたくなかったからです。
ただ、世話になっている次長からの頼みですし、本当に困ってしまいました。

もちろん、そんなことなら退職すると突っぱねるオプションもありました。
でも、当時の私には、そこまでの根性はありませんでしたね。
そして、そのあたりを見越されての打診だったようにも思います。

ちなみに、N次長も生粋の技術屋さんで営業は門外漢。
ただ、あそこから上に行くには、避けては通れない道だったのでしょう。
会社としても、イケイケの彼に営業を託したいという想いがあったのだと思います。
そんな立場の次長から支えて欲しいと言われては、これはもう断れないですね。

ということで、非常に不本意ながら、私は営業に移ることになりました。
いまにして思えば、時代のうねりに飲み込まれたというところですね。

営業への異動は、人生の一大転機でした。

営業では、OEMと販売店を任せられました。
当時の売り上げのほとんどがこれでしたから、まぁVIP待遇ですね。
でも、気持ちとしては、半分ふてくされているような状態でした。

そして仕事のほうは、これまたやることがほとんどないのでした。
なぜなら、黙っていても自動的に売り上げがあがる立場でしたからね。
やることといったら月々の売上債権の管理、あとは技術フォローぐらいでしょうか?
東京や大阪の販売店から呼ばれて、一緒にデモをするような日々でした。

とにかく、出張はしましたね。
週に3~4日は東京、月に一度は大阪というルーチンでした。
出張先では販売店の社用車に乗せられて方々を回るので、地理には詳しくなりましたね。
いまでも都内のことはだいたいわかるので、これは役得だったなぁと思っています。

ただまぁ、仕事には身が入りませんでしたね。
本来であれば新規開拓などしなくてはいけなかったのでしょうけど、やる気なしです。
出張がないときは、自席でヤフー掲示板などに興じている日々でした。

そして、仕事への熱が冷めた分、プライベートのことをいろいろ考えるようになりました。
結婚をしたのもこのときです。
もし、あのまま開発職だったら、結婚はしなかったかもしれませんね。
そういう意味でも、営業への異動は人生の一大転機だったと思います。

営業には、足かけ7年ほど在籍しました。
気づけば、開発職より長いキャリアになっていました。
そして、腐りかけていた私を見かねた事業部長の計らいで、今度は企画課に移るのでした。

次回に続く