オートバイ道

昔、ネットの掲示板でオートバイ道を提唱している御仁がいました。
なかなかユニークな人で、ずいぶんと楽しませてもらいました。
今回は、そこからみえてくるエセオートバイファンのことを書いてみたいと思います。

オートバイ道を唱える、ユニークな御仁がいました。

昔、ネットの掲示板に「オートバイ道」を唱えるユニークな御仁がいました。
かなり年配の方で、1970~80年代にライダー現役だったようです。
オートバイはとうの昔に降りて、今は英国製のスポーツカーを所有しているようでした。

その御仁は、いつもめちゃくちゃ高飛車なキャラクターで投稿していました。
なんでも、「いまのオートバイ乗りはなっていない」という上から目線のスタイルです。
そして、妙な御託を並べては他の投稿者を揶揄するような発言ばかりしていました。

確かに、御託はすごかったです。
数十年分のオートバイ関連雑誌をストックしているらしく、いつもそれがネタ元でした。
オートバイ上級者風を吹かせ、パッとみはすごい人なのかなぁとう感じでした。

しかし、よくよく話を聞いてみると、頓珍漢なことばかり話しています。
自動車メーカーの元技術者という割には、キャブレターの構造一つ知らなかったり。
ライテク話にしても、体重移動ひとつよくわかっていないようでした。
そして妙にプライドが高く、矛盾をツッコむと猛烈に反論してくるのでした。

ということで、この御仁をからかうことがいつしか日課となってしまいました。
いまは掲示板は閉鎖されてしまい、あの楽しみがなくなったのは残念です。

そして、あらためて、あの御仁はエセオートバイファンだったのだと思いますね。
端的に言えば、暴走族のアンちゃんと同じということでしょうか。
それでは、そのあたりのことを詳しく書いてみたいと思います。

エセにとってのオートバイは、自己顕示の小道具です。

昭和の頃の不良のアイテムといえば、これはオートバイというのが鉄板でした。
なぜなら、粋がるための彼らにとって、オートバイは最適なツールだからです。

大藪春彦氏が語る通り、クルマやオートバイは身体能力を拡張させるツールです。
徒歩では半径10kmの行動範囲が、これらを手にすることで20~30倍に拡張しますからね。
そして、自分をすこしでも大きく見せたい不良たちは、それにすごく歓喜するのです。

この構図が、前述の御仁にも当てはまると思います。
要は、彼にとってもオートバイとは、自分を大きく見せるためのツールなのですね。

前述の御仁は、みぞれの東名をナナハンにチェーンをつけて走ったなどと語っていました。
これなど、無謀な運転を自慢する不良のアンちゃんと、まったく同じ精神構造ですね。
そして、上から目線で妙な御託を並べ、最終的にはオートバイ道などを唱え始める。
これも、車体を珍妙にドレスアップして悦に入る暴走族と何ら変わらないと思います。

それなのに、自分は暴走族とは一線を画した正統派と思い込んでいるところが滑稽でした。
ある意味、偽善・欺瞞の極みです。
いずれにしても、あの御仁はエセオートバイファンだと思いますね。
そして、このようなエセたちが、この国のオートバイ趣味を下らないモノにしたのでしょう。

本当の意味でのオートバイ道

ただまぁ、10年ぐらい前までは、これらエセがオートバイファンの主流でした。
私になかなか気の合うオートバイ仲間ができなかったのも、これが理由です。

今の若い子がオートバイに興味を示さないのも、これが要因のひとつでしょう。
結局のところ、これらの偽善や欺瞞が、彼らに見抜かれているのですね。

そして、これらのエセは、意外と早い段階でオートバイを降りることになります。
なぜなら、人間年をとれば粋がる必要もあまりなくなってきますからね。
前述のオートバイ道な御仁も、ずいぶんと若いころにオートバイを降りたようでした。
結局のところ、端からオートバイなど好きではないのだと思います。

そもそも、自由の象徴であるオートバイに「道」という概念は似合いません。
型にはまらず好きなように走りたいから、オートバイを駆るワケですしね。
それなのに、自分が他人にどうみえているかを気にしては、これでは本末転倒です。

ちなみに、もしオートバイ道があるとすれば、その答えはスーパーカブだと思いますね。
なぜなら、オートバイの魅力を突き詰めれば、それはシンプルなところですから。
そのような意味でいくと、大型バイクを自慢している輩はまだまだ青い感じがします。

最近は、これらのエセもずいぶんと淘汰されたように感じます。
これからも、型にはまらず自由にかつシンプルに、オートバイを楽しみたいですね。