マルハラスメントってなんですか?

マルハラスメントなる言葉を、テレビで知りました。
なんでも、いまどきの若者は句読点に恐怖を感じるのだそうですね。
くだらないと思いながらも、すこし苛立ちを感じてそのまま流すことができませんでした。
今回は、そのあたりについて、つらつらと思うことを書いてみたいと思います。

マルハラスメントは、すべてがあまりにくだらないです。

マルハラスメントなる言葉を、テレビで知りました。
なんでも、いまどきの若者は句読点に恐怖を感じるのだそうですね。
これも一種のハラスメントなので、句読点の代わりに絵文字などを使うとよいとのことでした。

ぶっちゃけ、なんだそれは?ですね。
マルハラ自体も意味不明ですが、それ以前にこれを肯定しているテレビ番組に憤りを感じました。
文字だけでは感情が伝わりづらいことなど、ネットが普及する前からわかっている話です。
そんなに相手の感情を確認したいのなら、直接声が聞ける電話にしなさいといいたいですね。

そもそも、バイトを休む連絡をLINEでというところに違和感を感じます。
通常なら、確実に相手に用件を伝えるために電話を使うべきだと思うのですけどね。
たとえバイトとはいえ、仕事を休むというのはそんなに軽い話ではないハズです。

ただ、昨今はLINEのほうが、伝える方も受け取る方も、なにかと便利なのでしょう。
電話と違ってLINEなら、お互い都合がよいときに内容の確認ができますからね。

そしてもうひとつ、LINEには直接相手の感情に触れることがないという利点があります。
ですので、バイトを休むといった都合の悪い連絡にはうってつけという側面もあるのでしょう。
その挙句、句読点には恐怖を感じるなど、甘ったれるものいい加減にしろと思いますね。

仕事を休むことに対して、圧を感じない方がおかしい。

だいたいに、仕事を休むことに対して圧を感じたくないという根性が気に入りません。
体調不調など不可抗力であったとしても、相手に迷惑をかけることに変わりはありませんからね。
句読点云々以前に、多少の圧を感じてしかるべきとすら思ってしまいます。

仕事と遊びの一番の違いは、責任の有無ですからね。
責任のないトコロに報酬はありません。
そして責任があれば、そこには必ず圧が発生するのです。

ところが、最近はなんでも圧は排除すべしとの流れですね。
これは、あきらかにおかしいと思います。

仕事に伴う圧は、車輪に働く摩擦抵抗とおなじですね。
効率を考えれば、摩擦抵抗はすくないに越したことはありません。
しかし、これがゼロになってしまうと、車輪は空転して進まなくなります。
仕事に伴う圧というのも、これと同じ理屈だと思うのですね。

そもそも、このレベルの圧を問題にしていては、マトモな仕事などできるハズがありません。
ところが、今はこのような考え方自体がハラスメントになるのでしょうか?
やはり、なにかが根本的に間違っているとしか思えないのですね。

スタイルとハラスメントは分けて考えるべきです。

この話で救いなのは、マルハラについて否定的な人が多いトコロです。
マルハラなどあり得ないと発言する大学生も多いようですし、あたり前だと思いますね。
マスコミが数値を稼ぐためのネタだという、すこしうがった意見も散見します。
実際のトコロは、それが真相なのかもしれません。

ただ、それとは別に息子のLINEメッセージをみると、やはり句読点はないのですね。
なるほど、これが昨今のスタイルなのでしょう。
もちろん、これはこれでアリだとは思います。
どのようなスタイルでメッセージするのかは、これは個人の自由ですからね。

若者は、LINEを文章ではなく会話と考えているそうです。
また、文字の打ちやすさといった側面もあるのでしょう。
その結果、句読点レスのスタイルが主流になっているようですね。
そして、句読点があると逆に圧を感じるのだという説をネットで見かけました。

しかし、これもぶっちゃけ言い訳じみてると思いますね。
誰がどう見ても、LINEのメッセージは文章以外の何物でもありません。
であれば、読みやすくするために句読点を使うのは、あたり前のことです。
伝えたいことを正確に表現するためにも、句読点は必須でしょう。

もちろん、LINEを会話のように使いたいというニーズがあるのは認めます。
ただ、LINEをどう使うかは人それぞれですし、私などは完全に文章派ですからね。
それを、ハラスメントを理由に会話派と迎合しろというのも、すごく納得できない話です。
もう本当に、いい加減にしろよと思いますね。

どうにも最近は、どうでもいいことで自由が阻害されているばかりのような気がします。
これからも、コトの真贋をよく見極めて、流されないように生きていきたいですね。