死刑について
先日、死刑囚の訴えを退ける判決が、大阪地裁で出されました。
案の定、死刑になるヤツが何を言っているのかと、ネットは非難の嵐です。
しかし、これについてはいろいろと思うところがありますね。
今回は、この判決に対する私の考えを書いてみたいと思います。
法律上は、死刑囚にも人権があります。
先日、死刑囚の訴えを退ける判決が、大阪地裁で出されました。
現在、死刑執行の告知は執行の1~2時間前が慣習のようですが、これは憲法違反という訴えです。
告知から執行までの時間があまりにも短く、尊厳をもって最期を迎えられないとの内容でした。
ぶっちゃけ、私としては一理ある話だと思います。
しかし、案の定というか、ネットでは訴えを起こした死刑囚への非難の嵐ですね。
告知まで恐怖におののくのも刑のウチとか、死刑囚に人権は存在しないという意見もあります。
気持ちはわからなくはないですが、さすがにこれが大勢だと辟易してきますね。
また、訴えを完全に突っぱねた大阪地裁の判決も、とても非情だと感じました。
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられないと、憲法の第十一条には書かれています。
要は、極悪非道な殺人鬼や死刑囚にも、基本的人権は存在するのですね。
ですので、彼らが尊厳をもてないというのであれば、それに耳を傾ける必要はあるでしょう。
実際、自分が死刑囚になった立場で考えれば、直前の執行告知はキツイと思います。
ところが、このような第三者的視点に立てる人はすくないようですね。
少数派ながら、SNSで冷静な意見を目にしたときは、正直ホッとしました。
死刑から生み出されるモノは、何もありません。
ちなみに、死刑執行から生み出されるモノは、何もありません。
犯人の命を奪ったところで、殺された人が戻ってくるワケではありませんからね。
被害者側の溜飲が下がるというのも、ぶっちゃけ微妙です。
現実には、被害者の家族や関係者も、生涯にわたって重いモノを背負うコトになるでしょう。
実際にその立場になって考えれば、誰にでもわかる話だと思いますね。
そして、世界的な潮流としては、死刑制度が存続している国は少数派になっています。
実は、あのロシアですら、いまは死刑が行われていないのですね。
オランダに至っては、どれだけ極悪非道な犯罪者でも、最高刑は懲役10年のようです。
だからといって、犯罪率が高いというコトでもないようですね。
死刑を執行したところで誰も救われず、犯罪抑止力にもならない。
要は、死刑にはなんの生産性もありません。
そして、冤罪の可能性がゼロではない限り、死刑は廃止が理性的な判断だと思いますね。
しかし、この国では8割以上の人たちが、死刑存続を支持しているのです。
この国における人命は、軽いモノなのだと思います。
結局のところ、この国の死刑制度は、事件とは無関係な野次馬のためにあるのでしょう。
端的に言えば、「ひどいことをしたヤツはひどい目にあえばいい」という稚拙な大衆感情ですね。
要は被害者でも加害者でもない物見遊山な輩が、他人の尻馬で満足するためだけのモノなのです。
そう考えると現代の死刑も、近代以前の公開処刑と本質は同じなのかもしれないですね。
そして、このあたりのことは、この国の文化や歴史の影響もあるのでしょう。
Wikiで確認すると、死刑存続の国はアジアと、あとはイスラム圏に多いです。
そして、死刑廃止の国はキリスト教圏、特にカトリックが主流の国に集中してますね。
キリスト教では、たとえ極悪非道な殺人犯でも、それは神の創造物という考え方です。
そして、神の創造物を人間が勝手に殺めてはいけないというロジックがあるのですね。
それに対して、輪廻転生のアジア圏は、人は土から生まれて土に還るです。
神の創造物 VS 土、この価値観の違いは、死刑存廃に大きく影響していると思いますね。
なおかつ、この国はながらく、ハラキリの文化でした。
いまでも、大河ドラマなどで神々しく、ハラキリのシーンが放映されたりしています。
要は、責任は人命よりも尊いというDNAが、多くの国民に刻み込まれているのでしょう。
このあたりが、死刑存続支持率80%強の要因なのだと思いますね。
そう考えると、あらためてこの国における人命の取り扱いは軽いモノだと感じます。
すくなくとも、人間一人の命よりも下衆な大衆心理の方が優先されるのですからね。
今日もネットでは、被害者の代理役面した野次馬が、訳知り顔でたわ言をわめいています。
最終的に世の中は好き嫌いで決まるモノではありますが、本当に恥を知れと思うばかりですね。
そして、もうすこし建設的な死刑存廃論が論じられることを、切に願うばかりです。