上杉景勝と関ケ原の合戦

米沢の上杉博物館で開催されている、「上杉景勝と関が原合戦」という特別展をみてきました。
関が原合戦があった慶長5年(1600年)の一年間が、とてもよくわかる展覧会です。
そして、あのとき直江兼続が最上領を攻めた理由が、はじめてよく理解できました。
それでは、その特別展の内容と感想を書いてみたいと思います。

関が原合戦の一年間が、とてもよくわかる特別展です。

GW序盤の日曜日、米沢の上杉博物館で「上杉景勝と関ケ原合戦」という特別展をみてきました。
関が原合戦があったとき、東北では北の関ヶ原といわれる長谷堂の合戦が行われています。
それについての前後関係が、とても詳しく解説された展覧会でした。

ちなみに米沢は、学生のときに三年間住んだ街です。
雪深い田舎町で辛気臭く、あの頃は米沢という街自体にまったく興味が持てませんでした。

また、米沢の当主上杉家についても、ぶっちゃけ負け組大名といった認識です。
名君の誉れ高い上杉鷹山の話を聞いても地味な印象ですし、幕末に活躍した話も聞きません。
正直、パッとしないお殿様だなぁという感じなのでした。

さらに、上杉家といえば謎なのが、直江兼続の最上領侵攻です。
なぜ、あのタイミングで最上領に攻め入ったのか、いまひとつ理解ができないのでした。
もし、あのような侵攻をしなければ、30万石まで減封されなかったようにも思いますね。

最近はカブで古戦場あたりを走り回っているので、どうしてもそのあたりに想いが馳せます。
そのような私の疑問を氷解してくれそうな展覧会だったので、足を運んでみたのでした。

それで、展覧会自体はものすごくハイレベルでした。会場には、景勝や兼続はもちろん、家康や政宗といったそうそうたる戦国武将直筆の書簡がズラーっと並べられていて、まずはこのような宝物をたくさん集めて展示できる上杉博物館の実力に圧倒されました。

そして、それらの書簡をベースに、関が原合戦があった慶長5年(1600年)の一年間にあったことが事細かに解説されていました。それは、私の長年の疑問を解消するのに十分すぎるほどの内容なのでした。

上杉の最上侵攻に至る経緯が、よく理解できました。

展示内容によれば、五大老の一人だった景勝は家康から排除の圧力をかけられていたとのこと。
そして、家康派の伊達政宗と最上義光から北部方面を抑えられていたのですね。
要は、家康のいる江戸を攻めたくても、背後が気になって動きがとれない状況ということです。

そのような中、直江兼続は西の石田三成と通じて家康包囲網を構築します。
そして、江戸を攻める前に、背後の憂いをなくすために最上に攻め入ったのですね。

まぁ、この兼続と光成が通じていたかどうかについては諸説あるようですし、この展覧会自体にすこし上杉寄りの部分もあるのですが、しかし今回の展覧会には、その証拠となる書簡が展示されてはいました。というか、常識的な戦略論として光成と通じていなければ、家康に盾突き最上に攻め入ることは絶対にできないと思います。

上杉家として家康に頭は垂れないと決めた以上、あのタイミングで最上に攻め入るのは絶対にアリでしょう。もちろん、いきなり攻め入ったワケではなく、最後の最後まで最上や伊達に寝返るように工作し続けているトコロも、なかなか泣かされます。

そして、そのような情勢を踏まえると、家康もかなりの博打を打っていたのがわかりますね。関ケ原で勝てたのも、もしかすると首の皮一枚のことだったのかもしれません。今回の展覧会には、家康の勝利に歓喜する政宗の書状が展示されていました。たしかにあの状況なら、私でも家康の勝利に歓喜すると思います。

いずれにしても、私の長年の疑問が氷解する展覧会でした。
期待通りの内容で、ものすごく満足です。

いつの時代も、人間の性は変わらないのだと思いました。

しかし、武将たちの書簡のやり取りをみていると、当時の状況が実に生々しく伝わってきます。
大国の大国による大国の都合のための国割り、そしてそれに伴う現地の軋轢。
旧領主の旧領地奪還に対する怨念、軍事的圧力を伴う和平交渉、そして敵方領地でのかく乱工作。
今でいうテロ行為のようなことを、当時は一揆という形で行っていたのですね。

このあたりの構図は、先の大戦や、あるいは今現在のウクライナ侵略とまったく同じだと思いました。伊達や最上の旧領地への執念などは、まるでプーチンそのモノですし、上杉と最上・伊達連合軍の戦いも、いまのウクライナ東部で起こっていることとまったく同じです。やはり今も昔も人間の性は同じなのだと、あらためてそう痛感しました。

また、いつの時代も戦局を左右するのは情報ですね。
展覧会では上方と会津は遠すぎたと解説されていましたが、それも今に通じる真理でしょう。

それで結局、年齢的なところで家康が一番有利だったのかもしれないと思いました。
慶長5年、このとき家康は御年57歳ですね。
前田利家は前年に62歳で鬼門に入り、前田家はそうそうに家康の軍門に下っています。

政宗は33歳でまだまだ小僧、五大老の一人である宇喜多秀家に至っては若干28歳ですね。
これでは、家康にいいようにされてしまうのも致し方ないでしょう。
そして上杉景勝が44歳で一番血気盛んなトコロですが、やはり家康の老練さには敵わなかったのだと思いますね。

人間社会の上級生である50代は、一番世の中を牛耳れる年齢です。
そう考えると、家康が天下を取ったというのも半分は運のよさなのかもしれないですね。

そしてあらためて、いつも時代も生きていくのは大変だと思いました。
戦国時代にロマンを感じるという人もいますが、それってぶっちゃけ平和ボケだと思います。
今回の展覧会を見て、私はため息しか出ませんでしたね。

このような状況下で30万石(最終的には15万石)まで減封されたとはいえ、なんだかんだで戦国初期から明治まで続いた上杉家、名門としての矜持を失わず良心を貫いたその姿勢はすごいことです。決して負け組大名などではなかったのだと認識を新たにしましたね。とにかく、いろいろなことに想いが馳せる、実り多い展覧会でした。