英才教育などはありえない。

朝日新聞に、英才教育にとん挫した学校のことが紹介されていました。
英才教育などありえないのですが、実際に試した学校があることに驚きましたね。
そもそも、天才を求める風潮自体が理解不可能ですね。
今回は、そのあたりのことをつらつらと書いてみたいと思います。

このような教育を実践する学校に驚きです。

朝日新聞に、英才教育にとん挫した学校のことが紹介されていました。
英才教育などありえないのですが、実際に試した学校があることに驚きましたね。

記事によると、発達障害をかかえた児童に英才教育をおこなったのだそうです。
結果としては、独りよがりで持続性も低い子供ばかりになったとこと。
完全に失敗だったとの結論ですが、あたり前の話ですね。
というか、こんなことを実践してしまうところに戦慄を覚えました。

ぶっちゃけ、これは動物実験となんら変わりがないと思います。
悪い特別感をもってしまった子供もいるということで、シャレになりませんね。
実験的にこのような教育を施された子供は、今度どうなってしまうのでしょう。

いずれにしても、IQを元に英才教育などをおこなえば、こうなることは自明だと思います
しかし、教育のプロが、こんなことすらわからないというのが理解不能ですね。
本当にこの学校は大丈夫なのかと、すこし憤りを覚えました。

天才とは、99%の努力と1%の運

そもそも、天才を学校で育成しようという発想からしてひどすぎます。
このような発想をする人は、世の中のことがなにもわかっていないのだと思いますね。

アインシュタインは、10代のころから光について思考していました。
光の速度で移動したときにどんな風景が見えるのか、ずっと考えていたのですね。
そして導き出されたのが、相対性理論です。
結局のところ、理論は天才的なひらめきではなく、持続的な努力から生まれたモノなのですね。

だいたいにあのエジソンですら、天才は99%の努力であるといっているのです。
そして1%のひらめきとは、これは半分運のようなモノですね。
これなど、すこし人生経験を積めば、誰でもわかる話でしょう。

また、何かを成し遂げるためには、協調性は絶対に必要です。
研究職や開発・技術といった仕事でも、最終的に成功するためには協調性が欠かせません。
なぜなら、人間は社会性の生き物だからですね。
古今東西の偉人で、協調性のない人は皆無だと思います。

ところが、件の学校では、このような世の中の基本事項すら不明だったようですね。
英才教育うんぬん以前に、幼稚園の砂場からやり直したらと思います。

天才など必要ありません。

ちなみに、文科省はギフテッド(天才児)教育の支援を始めているようですね。
これも、本当に謎すぎます。
国家がこのようなことをして、人権侵害にはならないのでしょうか?

だいたいに、天才というのは後付けの呼称です。
99%の努力と1%の運で偉大な結果を残せた人が、あとからそう呼ばれるだけの話なのですね。

また、一握りの天才で世の中が良くなるといったワケでもありません。
偉業とは、常に多くの人のバックアップによって支えられているモノです。
現実は、天才がたったひとりで結果を出しているワケではないのですね。

結局のところ、すべては持続的な努力と協調性によるバックアップなのです。
このあたりは、もう古典に近いモノがあると思いますね。

しかし、どうして人は天才を欲するのでしょうね?
同じ日本人に偉人がいると、自分もどこか偉くなったような気になるからでしょうか?
冷静に考えるに、天才を欲する理由はそれしかないような気がします。
なんとも、くだらないことだと思いますね。

天才など無理に創出しなくても、なんら問題はありません。
世の中とは、市井の持続的な努力と協調性で進歩していくモノです。
このような基本事項こそ、学校で率先して教えてほしいと思うばかりですね。