ワールドカップ徒然
本日早朝はワールドカップ決勝トーナメント 日本-ベルギー戦であった。多くの人が寝不足になりながらの観戦だったとの由、お疲れ様である。そんな私は、リアルでは観戦していない。かといって、別にアンチワールドカップというワケでもない。ただ単に、寝不足になってまで観たいとは思わなかっただけの事である。
FaceBookなどのSNSでも何かと話題になっているワールドカップではあるが、「たかがサッカー」という発言が攻撃されていたり、あるいは応援しないのは非国民?といったネット記事の掲載を見かけるにつれ、なんだかなぁと思ってしまう。挙句は、国の威信をかけて戦うといった戯言に至っては噴飯、この国のワールドカップも随分と低劣になってしまったモノだ。
私がサッカーのワールドカップを知ったのは、今から36年前のスペイン大会である。当時、中学生だった私は、友人であるサッカー部部長のA君に、その存在を教えてもらった。A君は連日熱心に、スポーツ嫌いのラジオ少年だった私にその魅力を語ってくれた。そんなA君にほだされて、私も連日、深夜のNHKで観戦した。当時の私はオフサイドも良く分かっていないようなサッカー無知蒙昧であったが、それでもボンヤリした衛星中継の映像にくぎ付けになったのを覚えてる。サッカーってこんなに面白いスポーツなのだと感動した。そして「どうして日本が出場していないのか?」とA君に尋ね、日本のサッカーは出場できるレベルにないという話を聞いて二度びっくりしたのである。(笑)
あの頃、東北の田舎の中学校でワールドカップの話をしていたのはA君と私だけだった。
そんな出会いではじまった私のワールドカップは、国や人種に関係なく世界中から集まった超一流の選手達が繰り広げる超絶プレイを息をのんで堪能するトコロであり、そんな【芸術の場】で自国の勝敗に一喜一憂するに至っては、低劣の極みとしか思えないのである。
この低劣が目に付くようになったのは、ドーハの悲劇とやらが騙られるようになった辺りからか。日本選手に限らず、ワールドカップやオリンピックは、往々にして【妙なモノ】を必要以上に背負いこまされている様が散見されて痛々しい。マジメに【たかがサッカー】なのだから、もう少し肩の荷をおろしてのびのびやればいいのにと思ってしまう。
(それにしても、ドーハの悲劇という表現も何なのだろう。私は未だに、あれの何がどう悲劇なのか理解できない。単純に、実力不足で負けただけの事であろう。それなのに相手チームに対してあんな失礼な言い方をして、よくも恥ずかしくないモノである。)
勿論、ワールドカップにはお祭り的な側面もあるのも事実。なので低劣な楽しみ方もアリとは思うし、実際に私も低劣な人間だから、自国の勝敗に一喜一憂してしまう部分もある。ただ、あくまでそれは低劣なモノ、それゆえにそんな低劣な事で他人を巻き込むのはやめて欲しいと痛切に思うのである。
という事で日本が敗退した今、ようやく日本が出場していなかった頃のようにニュートラルな感覚でワールドカップを楽しめる環境が整ったように思う。トーナメント表を眺めるだけで胸が高鳴るような試合が目白押しだ。日本-ベルギー戦では寝不足になる事がなかった私だが、これから最終戦までの二週間は寝不足になる予感なのである。(笑)