死ぬということ

こんなタイトルですみません。

もちろん、私自身は重篤な病気というわけでもなく、いたって元気なのですが。
どうにも世間における死生観のようなモノに違和感を感じる昨今です。
今回は、死に対する私の経験と考えを書いてみたいと思います。

昨日、一昨日と著名人の訃報が相次ぎました。
まずは八千草薫さん、すい臓がんで今月22日に88歳で亡くなりました。
そして緒方貞子さん、昭和2年生まれで92歳とのことです。

緒方さんは、昭和5年生まれの私の父よりも年上だったことに、ちょっと驚きました。
国連での活躍は、還暦過ぎてからだったんですね。
50代で、もはやランディング気分の私からすれば、すごい気力と体力です。

八千草さんも、昨年に臓器の全摘手術をされたようです。
87歳で、そんな大手術を受けられるのも驚異的ですね。
やはり、偉大な結果を出す人は、気力体力から並ではないのだと痛感しました。

多くの人はこのような訃報に対して、「亡くなったのは残念だけど、それだけ長生きして数々の結果や成果を出せたのなら満足な人生だっただろう」と思うのではないのでしょうか?
また、八千草さんや緒方さんではなくても、俗にいう【大往生】した人に対しては、そのような評価がなされることが多いように思います。

でも、それってなんか違うような気がするんですよね。
いくら長生きしても、数々の結果や成果を上げても、死などそう簡単に受け入れることはできないのではないかと思うのです。

自然に死ぬって何?

よく、「自然に美しく安らかに死にたい」という人がいます。
また、「人生やることはやった。あとは、いつ死んでもいい」という人もいますね。
イメージとしては、縁側でウトウトしているうちにという感じなのでしょうか。
あるいは、ドラマのワンシーンのように自宅で家族に見守られながらとか。

ごめんなさい、マジ甘いよなぁって思ってしまいます。
ぶっちゃけ、これらは死に直面したことがない者の甘美な幻想ですね。

ま、平和で医療が発達した現代では、なかなか死に直面する機会はないですけど。
でも、死がどのようなものなのか、実体として分かってない人が多すぎると思います。
そして、そのような人が訳知り顔で戦争のことなどを語っても、Bikeに乗らない人がBikeを語るようなモノでしょうね。

ちなみに、私はこれまで3回ほど【死にそうな目 】 にあっています。
そこから言えるのは、死とは恐怖と苦痛と絶望の先にあるもの、ということですね。
自然に美しく安らかに死ぬなんてことは、正直あり得ないと思っています。

死ぬのは本当に怖い

私が初めて死にそうになったのは、高校2年生の時でした。
川に遊びに行って、溺れそうになったのですね。

そこは、ちょくちょく水の事故が起きる河原でしたが、友達とよく遊びに行っていました。
泳ぎは好きな方で学校のプールでもよく泳いでいて、ちょっと自信もありました。
でも、やはりプールと自然の川は違いますね。
多分、深いところの水温が低かったのでしょう。
まったく足のつかないところを泳いでいて、突然足がつったのです。

流れがある水中で体が思うように動かないわけですから、これはヤバいですよね。
もはや、完全に難破船状態です。
最終的には下半身全部がつったようになって、動かなくなりました。
この時は、自分は川でおぼれ死ぬ運命だったのかと思いましたね。

結局、根性でなんとか腕だけで泳ぎ切り、幸運にも岸にたどり着くことができました。
岸にたどり着いた時は、ホッとした気持ちよりも死に対する恐怖の方が強かったですね。
今でも、思い出すだけでゾッとする出来事です。

次は大学生の時、厳冬のバイパスをクルマで数百メートルほど滑走しました。
深夜の走行、未熟者で路面が凍結しているのにまったく気づけなかったのですね。
前方の信号が赤に変わったので、80km/hからブレーキング。
しかし、クルマはまったく停まらず滑走です。
そして、迫りくる赤信号の交差点、かなりの恐怖でしたね。
最終的には開き直ってこのまま突っ込もうと、硬直化した右足をブレーキペダルから離したら一瞬減速、そこでポンピングブレーキなる技を思い出し、なんとか停止できたのでした。
ここで学んだのは、死の恐怖に直面しても冷静さを失ってはダメだということです。
運良く、この時も九死に一生を得ました。

そして、3度目は社会人になってからのツーリング。
ドカで高速を150km/hで走行中、シングルシートの上に積んだ荷物がずり落ちて後輪に巻き込み、これまた数百メートルほど滑走しました。
スピードがスピードだけに、これもかなり恐怖でしたね。
この時は、凍結路の経験が活きてエンジン焼き付きと判断、冷静にクラッチを切りました。
人間、やはり経験値は大切です。

ただ、それでも滑走が止まらなくて正直ビビりましたけど。
荷物を巻き込んでいるのですからクラッチ切っても無意味なのは当然ですが、Bikeを降りてみるまでは後輪ロックの原因が不明でしたのでかなり焦りました。

それで、最後は「死んでたまるか」の根性で必死にBikeをコントロール、なんとか路肩に逃げて無事に生き延びることができました。
ここでの教訓は、絶体絶命のピンチに陥っても「絶対に死なない」という意志を強く持つことの大切さですね。
最後の最後は、気持ちの強さで決まるような気がします。

本当の意味での自然な死に方

ということで、人生で3度も死にそうになってる私も私ですが、しかしこのような経験をすると、もはやそう簡単に「いつ死んでもいい」とは言えなくなりますね。

ぶっちゃけ、死んだら全てはお終いです。
世界の終わりとか以前の問題です。
世界が続いていても、自分が終わってしまっては、もはやそこには何の意味もありません。

体を半分つぶされた虫が、それでもなんとか生き延びようと必死にもがき続けます。
でも、最後は力尽きて動かなくなり死んでいきます。
これが、死というものの実体だと思います。
そして、この実体は人間も同じなのだと思います。

虫などが死に逝く様を見るにつけ、死とは恐怖と苦痛と絶望の先にあるモノだと痛感します。
そして、この実体は、年齢や状況に関わらず同じなのでしょう。
0歳の赤ちゃんから100歳越えの老人まで、あるいはうつ病などで自死する人も、死にゆく全ての人は恐怖と苦痛と絶望の中で亡くなっていくのだと思います。
いくら高齢とはいえ、全員が全員悟りきって死ねるわけではないのです。
そして、それが本当の意味での自然な死に方なのだと思います。

また、その視点でいくと、ホスピスで痛み止めされて死を待つよりも、体に管をたくさん挿して延命処置されている方が自然なのかなとも思うのです。

ということで、私としては死ぬつもりはないのですが、もし死ぬとしたら恐怖に打ちひしがれ苦痛にのたうち回り、「死ぬのは嫌だ、死ぬのは怖い、助けてくれ」と泣き叫びながら死んでいこうと思っています。

それは、体を半分つぶされた虫のように。
そして、いくら高齢で大往生だと思われていたとしても。

甘美な死を妄想しているぐらいなら、逆にそのぐらいの心持ちの方が、もっと楽に死を受け入れられるような気もします。

死ぬことの凄惨さを理解する事

重ねて、美しい死や自然で安らかな死というのは幻想です。
残念ながら、これらは残された者のエクスキューズに過ぎません。
生きとし生けるものにとって、死とは凄惨以外の何物でもないのです。

これの理解は、非常に大切だと思いますね。
現に、世の中には死の恐怖と苦痛、絶望に直面している人がいます。
難病を抱えた人はもちろん、あとは紛争地域や戦場で生きる人達ですね。
この死の実体が分からなければ、これらの人たちの苦しみは理解できないと思います。

もちろん、だからといって危険なことをあえてしなさいとはいいませんが。
この辺り、なかなか難しいですね。

でも、平和ボケして再軍備などを安直に語る人には言いたいです。
一回ぐらい死にそうな目にあってみなさいと。

追記.セカオワのインスタントラジオについて。

この歌には「死ぬよりつらい人たちも」というフレーズがあります。
ポップでキュートなメロディにのって、何気に出てくるフレーズです。
何回聴いても、強烈です。

生きとし生けるものにとって、死ぬよりつらいことはありません。
そして、それよりつらい思いをしている人たちって、、、

フカセは、どんな想いでこの曲を書いたのでしょうね。
死ぬよりつらい人たちでも、楽しく笑って歌えたらいいのに。
本当に、そう思うばかりです。